人的資本経営とは? 重要な3つの視点と5つの要素、注目される理由を解説
「ヒト・モノ・カネ」と表現されるように、企業や組織を運営していくために社員(ヒト)は不可欠な存在です。人材の採用や育成などをコストと捉えるのではなく、企業の成長に欠かせない投資の一環であると考える「人的資本経営」が注目されています。
本記事では、人的資本経営とはなにか、従来の経営との違いを詳しく解説するとともに、関心が高まっている背景、国内外の動向をお伝えします。また、重要とされている3つの視点と5つの要素、人的資本経営におけるKPIの例も紹介します。
人的資本経営とは
人的資本経営とは、企業や組織で働く人材を資本のひとつとして捉え、人材価値を最大限に引き出すことによって中長期的な企業価値を高めていくことを指します。
優秀な人材の育成には教育コストがかかりますが、人材を資本のひとつとして捉えた場合、人材育成にかかる費用はコストではなく投資と考えることもできます。
従来の経営との違い
従来の経営では、人材を「資源」として捉え、管理することが人材マネジメントの目的として認識されていました。一方、人的資本経営においては、人材を「資本」と捉え、企業価値を創造するために積極的に人材に投資していくことが目的です。
また、従来の経営では、人材に関する取り組みは人事部門が主導しますが、人的資本経営では、経営戦略の一環として経営陣(取締役会)が主導するケースが多い点が特徴です。
人的資本経営への関心が高まっている背景
なぜ日本において人的資本経営への関心が高まっているのでしょうか。その背景にあるポイントを2つ紹介します。
深刻化する人手不足と技術革新にともなう人的資本価値の向上
日本では少子高齢化が進み、生産年齢(15~64歳)人口は1995年、総人口は2008年をピークに、減少に転じています。2020年には6割程度を占めている生産年齢人口は、2065年には、5割程度にまで減ると予想され、人手不足もさらに加速していくでしょう。
従来、人の手によっておこなわれてきた定型的な業務はデジタル化が進む一方で、DXを支える専門人材も不足している状況です。こうした世の中の変化に対応し、活躍できる人材の不足は今後も続いていくことが予想されます。そのため、採用だけに頼らず、人的資本経営によって自社の社員一人ひとりのスキル向上を目指し、自社がもつ人的資本の価値を高めることが重要となります。
ESG投資への関心の高まり
ESGとは、「環境(Environment)」、「社会(Social)」、「ガバナンス(Governance)」の3要素を指し、これらに配慮して投資先を選定することをESG投資とよびます。
ESG投資に注目する投資家が増えたことにより、ESGに配慮した経営に力を入れるようになった企業も少なくありません。ESGのなかでも「社会(Social)」に関連することから、企業はESG経営の一環として人的資本投資に力を入れるようになりました。
人的資本経営に関する国内外の動き
人的資本経営が注目され、その重要性が高まるなかで、国内外でも取り組みが加速しています。具体的な動きを見ていきましょう。
諸外国における動き
2018年には人的資本に関する情報開示のガイドラインである「ISO30414」が発表されています。その後、激しい市場環境の変化における投資家からの人的資本情報開示の需要が高まっていることをきっかけに、2020年8月、米国証券取引委員会(SEC)が米国の上場企業へ人的資本情報の開示を義務化しました。
また、人材に関わる取り組みがESG投資の「S」の部分である「Social(社会)」に該当することもあり、人的資本経営は欧米を中心に実施が進んでいます。
ISO30414とは
ISO30414とは、「人的資本に関する情報開示のガイドライン」ともよばれ、2018年12月に国際標準化機構(ISO)が発表しました。社内および社外のステークホルダーに対し、人的資本に関する報告をどのように実施すればよいのかをまとめた指針で、「コンプライアンスと倫理」や「コスト」、「ダイバーシティ」など、11の領域に関する指標が定められています。
ISO30414が制定された目的としては、ステークホルダーが人的資本の状況を把握することはもちろん、企業が自社の人材戦略を振り返り、持続的な経営を実現することも挙げられます。
日本国内における動き
日本国内でも、人的資本経営の重要性が認識され、2020年以降、経済産業省を中心に人的資本経営の制度化と可視化の流れが進んでいます。
「人材版伊藤レポート」の公表(2020年9月)
2020年には、経済産業省による「人材版伊藤レポート」が公開されたことで、企業のなかでも人的資本経営が注目されました。
人材版伊藤レポートとは、経済産業省で2020年1月から実施された「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」の最終報告書の通称です。このレポートでは、経営戦略と連動した人事戦略の策定と、それらをどう実践していくかがまとめられています。
「コーポレートガバナンス・コード」の改訂(2021年6月)
日本では、企業統治のためのガイドラインとして2015年から「コーポレートガバナンス・コード」が適用されていますが、2021年の改訂では、2020年の人材版伊藤レポートの内容を受けて、「人的資本への投資と開示」が強調されました。たとえば、以下に関する記載が盛り込まれています。
- ①管理職の多様性確保(女性・外国人・中途採用者の登用)に向けた目標設定をすべきであること
- ②人材育成や社内環境整備の方針と実施状況を開示すべきであること
- ③サステナビリティに関する課題への対応として、人的資本への投資に関する情報を開示すべきであること
「人材版伊藤レポート2.0」の公表(2022年5月)
2022年には、人材版伊藤レポート(2020年)で示した内容を掘り下げ、より実践的な内容を盛り込んだ「人材版伊藤レポート2.0」が公表されました。このレポートでは、人的資本経営の実践にフォーカスし、具体的な取り組み方や企業事例などを踏まえて、具体的なアプローチが8つの項目で示されています。
「人的資本可視化指針」の策定(2022年8月)
企業が効果的に人的資本経営を実践できるよう、2022年には内閣官房により「人的資本可視化指針」が策定されました。この指針は、とくに人的資本に関する情報開示の方法に焦点を当て、既存の基準やガイドラインの活用方法を整理した実践的な手引きです。
企業の業種や戦略に合わせて活用することが推奨されており、「人材版伊藤レポート」や「人材版伊藤レポート2.0」とあわせて活用することで、より効果的な人的資本経営の実現が期待できます。
有価証券報告書での人的資本情報開示の義務化(2023年1月)
2023年3月期の決算から、有価証券報告書を発行している上場企業は、有価証券報告書において「人的資本情報」の開示が義務化されました。具体的には、「人材育成方針」や「社内環境整備方針」などの項目に関する情報開示が新たに求められるようになりました。
人的資本経営に必要な3つの視点(3P)
人材版伊藤レポートでは、「3P・5F モデル」が提唱されています。このなかの「3P」とは、3つの視点(Perspectives)のことを指し、企業が人的資本経営を実現するうえで重要なポイントとなります。
1.経営戦略と連動した人材戦略
経営には人的資本が欠かせないことから、人的資本経営を実現するうえでは人材戦略が経営戦略と連動していることが重要となります。そのため、策定した経営戦略を実現するにあたってどのような人材が求められるのかを定義し、経営戦略とのつながりを意識しながら、自社に適した採用や育成、配置といった人材戦略を練る必要があります。
2.目標と現状のギャップの定量把握
人材戦略とビジネスモデル、経営戦略が連動しているかを判断し、目標と現状とのギャップの差分を定量的に把握することが重要です。また、人材戦略の実践段階においても、定量的に目標と現状のギャップは把握できるようにしておき、ギャップを埋められるように定期的にPDCAサイクルを回しながら人材戦略を見直していく必要があります。
3.企業文化の定着
企業理念や企業の存在意義(パーパス)、持続的な企業価値の向上につながる企業文化を定義し、定着させることが重要です。企業文化は日々の活動やそこで働く社員の意識・行動によって醸成されていくものです。
また、人材戦略の実行プロセスを通じても醸成されることから、人材戦略の策定にあたってはどのような企業文化を目指すのかを明確にしておくことも重要といえるでしょう。
まずは社員一人ひとりに対して企業文化を意識づけるためにも、経営トップ自らが粘り強く経営理念やパーパスを発信する必要があります。
人的資本経営に求められる5つの要素(5F)
人的資本経営を実現するうえでは、上記で示した3つの視点と合わせて5つの要素も必要とされています。これも人材版伊藤レポートのなかで提唱されており、5F(Factors)ともよばれます。
1.動的な人材ポートフォリオ
人材ポートフォリオとは、どのようなスキル・経験をもった人材が、どの部署にどの程度在籍しているのか、人材の構成内容として示したものです。また、動的とは、現在の状況をリアルタイムで把握できることを指します。
動的な人材ポートフォリオを整備し、活用や適時最適化を図ることで、現状において自社で働く社員の状況を正確に把握できると同時に、適材適所の人材戦略を実現しやすくなります。
2.知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
多様な経験や感性、価値観、専門性をもった人材を受け入れ、人的資本として経営に活かしていくことが求められます。さまざまな経験や知見を取り込むことで、時代とともにビジネス環境が変化していくなかでも持続的な価値向上が期待できるでしょう。
また、多様な知見をかけ合わせることでイノベーションが生まれ、これまでになかった革新的な事業のヒントになることもあります。
3.リスキリング・学び直し
新たなスキルや知識を身につけることをリスキリングや学び直しとよびますが、企業は社員が自らのキャリアを見据え学び直しに取り組めるよう、自律的なキャリア構築を支援することが求められます。リスキリングや学び直しの習慣が社員一人ひとりに身につくことで、ビジネス環境や経営環境が変化し続けるなかでも柔軟に対応していけるようになるでしょう。
また、組織変革を実現するためにも、社員だけでなく、経営陣も率先してリスキリングや学び直しを実践していくことが求められます。
4.従業員エンゲージメント
従業員エンゲージメントとは、企業や組織に対する愛着心や思い入れ、自社に貢献したいという意欲などを意味します。従業員エンゲージメントを向上させるためには、企業や組織の目標と社員個人の成長のベクトルを一致させることが重要です。
そのためには、経営層から社員に向けて積極的に発信・対話することはもちろんですが、社員の納得感や共感を得やすい経営戦略を構築したり、柔軟な就業環境の整備、多様なキャリアパスなどを準備したりすることも有効といえるでしょう。
5.時間や場所にとらわれない働き方
災害対策や感染症対策といった、緊急時においての事業継続の観点から多様な働き方への対応が求められています。たとえば、リモートワークやフレックスタイム制、時短勤務制度などを整備することで、時間や場所にとらわれない働き方が実現できます。
ただし、単に環境を整備しただけでは不十分で、オフィス外でも業務が滞りなく進められるよう、業務プロセスの見直しやコミュニケーション手段の見直しなども求められるでしょう。
人的資本経営で重要となるKPI(開示情報の指標)
人的資本経営の実践においては、自社の現状を正しく把握し、効果的な戦略を立てるために、定量的な指標(KPI)を設定することが重要です。2023年から有価証券報告書において人的資本情報開示が義務化されたことも踏まえて、具体的なKPIを設定してモニタリングしていく必要性はさらに高まっています。
ここでは、内閣官房の「人的資本可視化指針」において参考資料として示されている、KPIの一例を紹介します。
開示事項 | KPI(開示情報)の例 |
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・研修時間、コスト ・研修参加率 ・リーダーシップの育成 など |
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・エンゲージメントサーベイの結果・要約 など | |
・離職率、定着率 ・採用コスト、離職コスト ・求人ポジションの採用充足に必要な期間 など |
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・属性別の従業員・経営層の比率 ・男女間の給与の差 ・正社員・非正規社員等の福利厚生の差 ・育児休業後の復職率・定着率 ・男女間賃金格差を改善するために講じた対策 など |
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・コンプライアンスや人権等の研修を受けた従業員の割合 ・人権問題の件数 ・差別事例の件数・対応措置 ・懲戒処分の件数と種類 など |
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・労働災害の発生件数・割合・死亡数 ・医療・ヘルスケアサービスの適用範囲・利用状況 ・労働災害による損失時間 ・安全衛生に関する研修を受講した従業員の割合 など |
企業の中長期的な成長に向けて人的資本経営に取り組もう
技術革新や人材不足の加速、ESG投資の拡大を背景に、企業における人的資本経営の重要性はますます高まっています。諸外国の動きを受けて、国内でも「人材版伊藤レポート」の公表や「コーポレートガバナンス・コード」の改定といった取り組みが加速しています。
企業がこの動きに対応するためには、従業員を「資源」ではなく「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すための投資がますます重要になっていくでしょう。
人的資本経営を実践するためには、3つの視点(3P)と5つの要素(5F)の両輪が重要です。本記事で紹介した内容を参考に、自社での具体的取り組みに活かしてみてはいかがでしょうか。